日々しるし

ニートの記。つらつらとアウトプット。

メディアと感動の話

 スポーツ観戦は結構好きだ。なかなか生で見る機会はないけれど、様々な競技を(とは言ってもルールを理解できている競技みることがほとんどだが)テレビの前などで見ては一喜一憂するのは楽しい。

 先日終わったオリンピックももちろん楽しく見ていたし、今年はオリンピックもあり、出身県の代表も早々に負けてしまったからか結果だけを追うことになってしまったが甲子園も毎年楽しみにしている。



 スポーツ観戦では、しばしば感動が得られると思う。オリンピックで同じ人間とは思えないような凄い技、スピード、パワーなどを目の当たりにし、その一進一退の攻防の行く末を見守ると、否応なく心は高揚し、結果如何に関わらず、私は凄いものを見たという気持ちになった。甲子園では、負けたら次はないという気持ちからくるのか一瞬一瞬が必死な球児の姿には心が締め付けられる。


 ところが、テレビでスポーツ観戦をしていればそれ以外の感動も付いて回る。 メディアはスポーツの周囲をも感動の対象としたがっているように思えるのだ。本人のそこまでの挫折苦労努力、家族や友人、恩師や師匠(時に今は亡き〇〇)の支えなどなど毎度の様に取り沙汰される。

 もちろんそれらがあってこその結果や感動ではあるし、称えられるべきものなのであろうが、それらが毎度あまりにも強調されるので、だんだんとつくられたもののように、わざとらしく感じるようになってしまった。

 それが嫌だというのならば純粋に競技のみを見ていればいいという話なのかもしれないが、もっとスポーツそのものに焦点を当てた番組というものはないのだろうか。単に需要がなく、詳しい競技についての話は専門誌ででもやるものなのだろうか。それとも余り詳しい話は対戦相手に研究する糸口を与えかねないからするべきでないということなのだろうか。


 閑話休題

 メディアと感動といえばこの時期思い出されるのが、今週末にある例の番組である。最近は批判の声もあるように思えるが、私個人としてはわざとらしい、偽物のような違和感を覚えてしまうようになった。

 実際にはこの番組だけに限らないのだが、テレビで感動の物語と謳っている番組はどうも胡散臭く感じてしまうのだ。フィクションであれば王道の感動物語は素直に涙するのに。(ノンフィクション番組を見ることができないのは話題になった共感性羞恥というものが関係しているようにも思う。私にとっては自分をさらけ出すことが恐らく羞恥であるから。)





何にせよ、次はパラリンピックが始まる。残念ながらオリンピックほどには報道バラエティなどで取り扱われないと思うので、存分にスポーツそのものを楽しみ、感動できればと思う。

 それでもやっぱり私も、競技以外のところにも目が向いてしまうことは確実である。